こんな場面は出てこない

巨匠ルイ・マルの黒歴史?

はい、みなさんこんばんは。今回ご紹介致しますは『ブラックムーン』。『死刑台のエレベーター』や『地下鉄のザジ』で知られる巨匠ルイ・マルが手掛けた迷作です。

この作品、正直どう紹介するかまだ掴みかねております。というのも、わけわからん系(いわゆるシュール)と片付けてしまうと、作品の魅力がほとんど伝わりません。

さりとて言葉で作品の意図を全部説明すると、いざ鑑賞という時に余計な先入観を持たれてしまいます。耳年増は逆に害、といった事態になりかねません。

これから語るのは、あくまで銀幕の館が語る解釈の一つだと心得て下さい。

さて、じゃあいつも通り紹介させてもらいます。まずはあらすじから。

あらすじ

一人の少女が軍隊から逃がれ、森の中の一軒家に避難する。しかしそこは、常識が通用しない場所だった。子供は皆、裸で羊や豚を追いかけ、寝たきりの老婆は無線機にばかり話しかけ、ユニコーンは脚が短くずんぐりと太っており、姉弟は言葉を喋らない。また、迷い込んだ少女自身も、言動や行動、情緒が一貫しない。少女はユニコーンを求めてバタバタと、転びそうになりながら走るが、神出鬼没で捕まらず、かわりに家人たちにいちいち捕まってしまう。

やがて、彼らの家にも戦争の影が近づいてくる。しかし、それらは果たして現実なのだろうか。

信頼できない語り手

あらすじだけ読んでも、何が起きているのか想像し難いと思います。正直自分でも何を言っているのかわからなくなります。起こったことをありのまま話すとこうなる笑。

『ブラックムーン』はよく『不思議の国のアリス』と比較されています。少女が不思議な生き物たちの世界に迷い込む構造が、類似しているからでしょう。主人公が普通の人間で、主人公以外の登場人物が人外だったり、異形な見た目をしている作品を指して、”アリス構造“と呼んだりします。

本作もいわゆるアリス構造ではあるのですが、普通の人間も登場するので、厳密には当てはまらないでしょう。むしろ、『不思議の国のアリス』では使われていない手法が気になりました。それは、”信頼できない語り手”という手法です。

物語には大きくわけて一人称で語られるものと、三人称のものがあります。一人称は、主人公の自分語りだったり、ナレーションで展開してゆく作品。三人称はそれ以外ですね(大雑把)。そして、この一人称でナレーションをしてくれる語り手が、実は信用ならないやつだった。というようのが”信頼できない語り手“です。

アリス構造では、主人公以外が異形の生き物であるゆえに、観る側は主人公に感情移入するしかありません。ところが『ブラックムーン』の主人公リリーは、行動や言動が突発的すぎて、途中から何を考えているのかよくわからなくなります。

リリーがあまりにも迷走するので、彼女の言葉や行動を信用できなくなります。戦争や、無線機に話しかける老婆、裸の子供たちは、リリーの妄想の産物でしかないんじゃないか。そう、疑問が頭をよぎります。

実際作中には、戦争や老婆の存在事態が怪しいと、暗にほのめかす描写があったりします。

本作はナレーションが一切ないため、厳密には一人称視点とは言えないのですが、アリス構造と信頼できない語り手という、二つの手法を組み合わせることで、最後まで常識を覆し続ける作品に仕上がっています。

どんな気持ちだ、そんなに美しくて byユニコーン

それにしても、登場人物たちがみんな美しすぎます。美男美女揃い。

映画俳優なんてみんなそうなんじゃないの、と思うかもしれません。しかし安っぽいドラマならともかく、大抵は、美形じゃない登場人物も配置して、バランスというかリアルさを演出します(イケメン俳優にわざとダサイ格好をさせるなど)。

生まれながらの美しさ以外認めない考えを、耽美主義などと言ったりしますが、本作『ブラックムーン』も、登場人物がいちいち美男美女で固められており、性描写や流血表現も相まって、耽美主義の片鱗を感じます。美男美女に見惚れていると、それしか印象に残らない映像体験になってしまいます。それはちょっと勿体ない。

少し冷静に観察すると、ユニコーンがなぜか太っていたりして、細部がなかなか面白い、味わい深い作品になっていますよ。

おわりに

はい、ということで今回は『ブラックムーン』をご紹介しました。新宿K’sシネマの奇想天外映画祭で上映されていた本作。仕事明けの身体を押して観に行った価値はありました。

ルイ・マル監督はかなり有名な巨匠らしいので、他作品も探してみたいと思います。さすがに本作ほどの迷作は、そんなにないと信じたいですが。

それではまた次回お会いしましょう。

著者
こねこ座

こねこ座

映像作家。個人でアニメーションを制作する傍ら、ご機嫌な映画紹介ブログの管理人をしている。

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